離れた唇の間で混ざりあった唾液が糸を引く、その余韻に浸っていたブルマは、ふいに首筋に感じた生暖かさに我に返った。
「ん……あ、ちょっと!」
筋に沿って降りていき鎖骨の窪みの少し上、今まで幾度となくベジータの舌になぞられた部分──彼はそこがブルマの首で一番敏感な場所だと知っている。馴染みの刺激がまるで馴染みのない場所(ここはベッドでも、社長室のデスクの上でもない!)で生じたことに、彼女は驚いて身をひいた。
「ちょっと待ってよ、何考えてんの?」
濡れた皮膚から急速に温度が奪われ、反射的に震える身体。それに反比例して高まる火照り。
「やだ、いくら人がいないからって……こんなところで」
「きさまこそ、さっきは大声で色々と叫びやがっただろうが」
「わ、悪かったってばぁ。でもそれとこれとは……」
そう言って押し退ける腕に全く力が入っていないことは、ブルマ自身にも明白だった。肩にもたれた彼の重さ、頬をかすめる髪の毛の鋭さ、言葉とともに吹きかかる息の湿度──身体はほんの些細な仕草にまで欲情する。舌や指や言葉で押すブルマの欲望のスイッチを、彼は極めて精確に、上から下まで熟知している。
「駄目……駄目だってば」
ベジータの背中に回した両手が、今度は彼のスイッチを求めて左右する。癖まで知りつくしたお互いの身体、それなのにいつまでも飽き足らない貪欲な二人の身体。
(ダメ、でも──)
拒絶のはずの口ぶりは熱気と艶気を帯びていて、一つの欲情が呼び水となって興奮は増し、理性は身を潜め──
「きゃあっ」
突然、ベジータはブルマを抱きかかえたまま浮き上がり、音を立てずにキャットウォークの上に降り立った。何ごとかと開きかけた彼女の口を、肩に回った彼の右手が塞ぐ。
「……黙ってろ」
ドアの開く音がして、わずかな間外の気配がホールへと漏れ、
「おや、ブルマちゃん達は帰ったのかな」
聞き覚えのある声がしんと静まり返ったホールに寂しく響いた。管理人が戻って来たのだ。
(だからって隠れることないじゃないの……いえ駄目ね、私、きっと今すっごく物欲しそうな顔してるわ)
声の反響が収まると、今度は足音が近付いてくる。音は舞台のすぐ側までやってきて、かろうじて見える視線の先に管理人の頭頂部が現れた。よもやこんな所に二人が立っている──それも言い訳が虚しくなるほど赤い顔をして──とは思ってもいないだろう。ベジータが『気』のわかる男で良かったわ、とほっと安堵の溜息を漏らすと同時に、ブルマは地上に立っている普段は自覚しえない自分の足の重さに驚いた。見ればベジータの抱える左腕からはみ出した足が、所在なさ気に宙ぶらりんになっている。
(浮くのって結構大変なもんなのねえ……舞空術の原理ってどうなってんのかしら、ニュートンおじさんに聞いてみたいもんだわ)
と、やたら暢気に構えるブルマの下半身に、引力とは違う刺激が走った。
すぐ下に人がいるのに? 舞台の上の上なのに?──口を塞がれたまま目を丸くして視線を上げると、そこにあったのは片頬をクッと持ち上げた彼の御満悦顔だ。
夫は意地悪や皮肉は言っても、私が本当に嫌がることはしない男──
(この定義は今日限り廃止にするわ。この、サディスト!)
コツ、コツ、コツ──緊張のせいか他愛もない足音もまるで耳鳴りのように頭に響く。横になったブルマからは舞台の全貌が視野に入らないため、管理人が何をしているのかはわからなかったが、どうやらまだ舞台袖のあたりを歩き回っている。
それにも関わらず、確実にスイッチをオンに入れながら太腿を走る夫の指先。この体勢と状況では何一つ抗議出来ない。思わず漏れそうになる吐息を必死に我慢するだけで、なすがままにされている。物音を立てれば、管理人はこちらを見上げてしまうだろう。いくらここが暗く輪郭しか見えなくとも、男女が隠れて何をしていたのか想像するに難くない。
(だめ、絶対声を出しちゃダメ……あんな純朴そうなおじさんに、そんな下卑た想像させちゃ駄目よ! それにここは父さん達の思い出の場所なのよ……それに、それから……あーもうおじさん何してんのよ、早く帰って!)
きつく目を閉じ理性を総動員させてみても、興奮した身体を鎮めるにはまだ足りない。ベジータの指はそろそろ一番敏感な、この場に一番不似合いな場所に到達してしまう。その時理性は本能に勝てるだろうか──ブルマが瞼を開けると、涙で掠れた視界に自分の足下が見えた。お気に入りのサンダルの下には管理人の白髪の頭。
(流されちゃいけない、あの人に気づかれては駄目。そうよ関係ないこと考えよう。えーと今日、今日のこと……カプセルは結局どこに落としたのかしら、バッグに入れたはずなのになあ……ん? バッグ……あ!)
見ればウエストポーチのホックが外れかけ、今にも落ちそうになっているではないか。まずい、落としたら完全にバレる──焦ったブルマは何とかホックを掛け直そうと身体をよじった。とその刹那、曲げた肘が大胆且つ斬新な角度で、ベジータのみぞおちをこれでもかとえぐった。
「む……」
いくら最強のサイヤ人とはいえ、不意打ちに声を上げるなという方が酷だ。ベジータは思わず小さな呻きをもらしてしまった。体勢を崩さなかっただけでも賞賛に値するだろう。
(ばかっ、何であんたが声出してるのよっ!)
自分のせいだということを棚に上げ、ブルマは目で精一杯の抗議をしたが、もう起きてしまったことは取り消せない。管理人は「ん?」と声を上げた。
(ああ……ジ・エンドだわ……)
頭の後でベジータがごくっと唾を飲み込んだ。ブルマの脳裏には、なぜだかミスター・サタンの顔が走馬灯のように浮かんだ。ポーチのことなど思い出さずに、あの男の顔の一つや二つ考えれば良かったのだ。望み通り興奮を源から萎えさせることが出来たのに。
ブルマは息を止め、身を縮める。すると管理人は意外にも、腰を屈めて舞台の隅から何かを拾い上げた。
「やあ、あったあった万年筆。やっぱりここだ」
彼は万年筆にふっと息を吹き掛け埃を払い、愛おしそうに手中を眺めた。そしてその目元を保ったまま観客席に視線を移し、独り言をつぶやいた。
「長い間おつかれさま。君もゆっくり休めよ」
──段々と遠くなる足音は静閑なホールに溶け込んで、重厚で古びた扉の軋む音の後で完全に消え去った。
「は、はあ……あ、焦ったぁ」
口元を覆っていたベジータの手を押し退け胸にたまった空気をひと息に吐き出す、と同時に、ポーチはブルマから離れ舞台の床にぶつかって鈍い音を立てた。
「まったく……あんたのすることって無茶苦茶よ!」
息と一緒に、今まで我慢していた抗議を思う存分に放りだす。残酷な肘打ちに対する謝罪要求の暇すら与えない。
「ほら、気が済んだでしょ、降ろしてよ! 落とさないように気をつけてよね」
妻の不遜な態度にベジータは不満気に舌打ちをしたが、気が変わったのか、素直に忠告に従って慎重に彼女をキャットウォークの上に立たせた──のも束の間、今度はそのまま縦に抱き変えた。仁王立ちしたベジータにブルマが正面から巻き付く格好だ。
このまま下まで降ろしてくれるのだろう、というブルマの思惑を外れ、彼は一向に降りようとしない。
「何してるの、はやく降ろしてよ」
ベジータは依然何も言わず、ただすぐ目の前の彼女をじっと見つめている。その口元にあの、厭味とも勝気とも挑発ともとれる誇らし気な笑みがじわじわと浮かんできたのを、ブルマが見逃すはずはなかった。
良い予感? まさか!
腰に回ったベジータの片手が滑り込むようにして下着を押し分け、何かを確かめるようにさぐる。
「ちょ、ちょっとまさかあんた」
ブルマからは見えない部分のジッパーが降ろされる音、衣擦れの気配、その後で太腿にあたった確かな質量。
「嘘、待っ──」彼の足はポンとキャットウォークの板面を蹴った。「んぁっ!」
ドン、と下半身に打ち付けるような鈍く重い衝撃が走る。一瞬の出来事──ブルマは空中に浮いたままベジータに貫かれた。
あんな緊張の間萎えることがなかった彼にも驚いたが、まだ触れられてもいないのに何の苦もなく受け入れてしまった自分の身体にも驚かされる。
(うそ、何これ、濡れすぎ……私って『こんな』だった?)
腰を引き、打ち付ける──出ていって、また戻ってくる。海岸線に押し寄せる大波のように、時に引き潮の緩やかなさざ波のように。そしてまた繊細で大胆な若き指揮者のタクトのように。二人が離れまた身を寄せあう度、粘液の卑猥な伴奏は鳴り響く。ブルマの喘ぎは歌詞となり、観客の途絶えた年代物のホールの最期を飾るべく、二人きりの淫靡なオペラは繰り広げられた。
(そうね……前から『こんな』だったかも)
ベジータの支えしかない不安定な体は操り手のいない人形よろしく激しく揺すられ、ブルマの頭を思考の海から引き離す。
気持ちが良い──今更否定など出来ない。言葉にならないほど気持ち良い! ブルマはふつと途切れそうになる意識と上半身の力を振り絞り、彼に抱きついた。自分と全く同じように熱く激しい彼の鼓動。
最初に肌を合わせた時から変わらずにずっと──もう何年も一緒に居て、一人息子さえいるのにずっと変わらない──彼を想う度彼と抱き合う度、彼を感じる度に味わうこの感情を、どう言い表せばいいのだろう。他に比べるもののない宇宙の広さを正確に表現出来ないのと同じく、たった一つしかないこの気持ちももどかしいほど言葉に出来ない。
あえて一つだけ言い換えるならば──好き。
(好きよ、大好き、あんたのこと愛してる)
胸のうちに紡いだ単語も、やはり言葉にはならなかった。開け放しになった唇からは、意味のない喘ぎ声しか出て来ない。
(愛してる愛してる、愛してるんだってば! 愛して──)
絶頂に達した瞬間、腕から力が抜けたブルマは弓なりに反り返った。逆さまになった半円状の客席がスローモーションで広がっていく。身の内に描かれるのは、幼い日に見た劇場の感動、怒濤のごとく打ち響く拍手喝采!
「ああ……」
身の重さに心地よいだるさを感じながら、ブルマはあられもなくのけぞったまま瞼を閉じた。
額に流れ行く涙の筋──ああ、地球は回ってる……あれっ?
◆
ブルマは舞台の端に腰掛け、しばしの静寂を楽しんでいた。オーバーヒートしていた身体機能は正常時の静けさを取り戻し、汗ばんだ身体はすっかり乾いて、情事の痕跡は筋肉のわずかな疲労だけになっている。明日には筋肉痛に悩まされるかもしれない。彼女はそっと自らの膝を撫でると、少し離れた場所で腕組をして立つ夫を振り返った。
最中はあんなに扇情的で雄弁だった態度がまるで嘘だったかのように、彼は押し黙っていた。無茶な体勢で事に及んだことへの後ろめたさもあるのだろうか。
「ねえ」ブルマは肩越しに声をかけた。
「なんだ?」
「毎日じゃ心臓がもたないけど、たまにはいいんじゃない? こういうのも」
毎度のことではあるが、妻のあけすけな物言いにベジータは赤らんだ顔を背けた。
「ブルマ、きさまという奴は本当に……」「何よ?」「……なんでもねえ」
彼女の言動にいまだに驚いてしまうのは、彼が男女関係に疎い戦闘民族で、さらに王子だからなのか。ブルマはそんな彼のギャップが微笑ましく──彼を想う自分ごと──たまらなく愛おしくなる。
「そんな下品な女に惚れたあんたが悪いのよ」
「お、オレは何も言っとらん!」
ベジータは吐き捨てると、ぷいと視線をそらせた。
言ってるわよ、充分ね──ブルマは楽し気な声を上げると、立ち上がってベジータの頬に口づけた。
◆
「よう、二人ともおかえり」
「ママ、おかえりなさーい!」夕焼けの今日最後の輝きで染まるロビーでお茶を飲んでいたウーロンに続いて、トランクスが大声をあげながら二人に駆け寄ってくる。「あれ、パパも一緒だったんだ」
「うふふ、そうよ、一緒なの」
やたらと上機嫌な母親といつにもまして不機嫌な父親を、息子は好奇心旺盛な少年の瞳で交互に眺めた。
「おやブルマ、ベジータくんも。二人して出かけてたのかね?」
丁度仕事を終えたのか、奥の廊下からブリーフ博士がやって来る。ベジータはその暢気な顔を思わず睨みつけそうになって、止めた。逆恨みしても仕方あるまい。
それにまあ、デートというものもまんざら……と思いかけてこれも慌てて頭から締め出した。そんなものは、彼のスタイルではないのだ。帰る家があり、ともに帰る人があり、帰りを待つ家族がある。それは悪いものではない……心地よくなんかない、でも悪いもんじゃない──それが今現在の彼の最大限の譲歩だ。この感情も風景も、いずれ少しずつ変わっていくだろう。意識せずとも人は時の流れとともに変化していくものだ。夕暮れのような穏やかな変化はとても気持ちが良い──
「──あ!」突如あがった妻の叫び声に、今度は何だとベジータが身構える。「バッグ……忘れてきちゃった」
脱力した彼の口から、はぁ、と今日一番の大きな溜息が漏れた。
「ベジータぁ、おねがーい!」
「きさまの『お願い』はもう、二度と聞かん!」
怒る夫にはしゃぐ息子、呆れ顔のウーロン、端で静観する父親。日常の光景がカプセルコーポに戻って来る。
騒ぎ声を聞き付けた母親は、オレンジ色の柔らかな日差しに包まれてじゃれあう二人の姿を見て微笑んだ。
「あらあらどうしたの、仲良しさんねえ。それじゃ皆さん揃ったところでお食事にしましょうか」
見守るようなぬくもりのこもった母親の声、ブルマは満面の笑顔で振り返る。
「ただいま!」
<了>
☆おまけ的あとがき
冒頭と中盤に出て来る人形のお話は、バレエ「ペトルーシュカ」がモデルです……と、言いつつ実は私もバレエそのものを見た事はありません、えへっ(可愛く言っても駄目!)。観劇経験なんてバレエを習っていた友人の発表会のチケット売り上げに貢献させられたのと(ちなみにその友人は五秒くらいしか出番のないちょい役でした)、高校時代に課外授業で見せられた吉本新喜劇のような日本語オペラくらいなので、ホールの描写も曖昧にしか書けませんでした。トホ。
というのも、この短編は「キャットウォークに立ってナニをいたすベジブル 〜足下に人が!? どっきりハプニング付き〜」というワンアイデアから広げた話でして、どうすりゃ一般人がキャットウォークに立つなんて状況になるんじゃい、ということを三日三晩寝ながら悩んだ(©のだめ峰親子)結果、乏しい知識にも関わらず閉鎖された劇場なんて舞台を持ち出したわけです(ところでこのお話では「なんて下品な〜」とは変わって直接的エロ〜ス描写は控え目にしてみたのですが、我ながら「淫靡なオペラ」は恥ずかしかったです・笑)。とりあえずそれなりに着地したことはしたんじゃないかなあとオドオドしつつ〆させていただきます。
そうそう、イラストの「もしも空が飛べたなら」はこのシーンをイメージして描いています。当初は靴が脱げるという設定で靴のほうがなんぼかロマンチックではあったのですが、さすがのブルマも靴を忘れるこたぁないだろうと思い直しバッグにしました。
あとついでに、作中での時差のことは考えないでおいて下さい。自分でも書き終わってから東の都と西の都の位置関係に疑問が生じ……まあ言わなきゃわかんないか! 言っちゃったけど。